思うことなど

身内に不幸がありまして、ちょっとバタバタしてました。
なんか今年はお葬式が多いなあー。
近しい間柄のお葬式、たぶん、この1年で4件めだと思います。みんな、高齢だったり、長患いの結果だったりするので、ショックはそれほどないんだけど。やっぱりさびしいものです。
人は誰でもいつかは死んでいくものだけど。自分もね。
誰かが亡くなるというのは、やっぱり一筋縄ではいかないことで、そのときになると、いろんな感情があらわになったり。びっくりするような人が、びっくりするようなことを言ったりしたり、するんですよね。
そういうことどもに行き会っているうち、体はそうでもないのですが、脳みそが疲れちゃいました。
はあ。



いろいろと、長いお別れなども経験して、最近つくづく思うのが、お別れしていく人と出会ったこと、彼らといっしょにいたことで経験した感情、ひとつひとつが、行ってしまった人たちからの贈り物なんだなーということです。
楽しかったり、うれしかったり、怒ったり、悔しかったり、人と人のあいだで生きていくうえで心に起こるさまざまな波、ひとつひとつが、その人との出会いなしには発生しえなかったものです。
幸福とはいいがたい感情を置き土産にされることもあるかもしれない。それすらも、贈り物だと思うのです。その感情から、引き出された考えや学んだこと、そういうものも含めて、私の人生が作り上げられてきたと感じるからです。
もちろん、この世のすべての人が善人じゃありませんし、たかが死んだだけで許されるよーな奴じゃない、というような人との出会いも、あることでしょう。心が傷つくのは痛ましいことだと思う。でも、他人には、自分を傷つけることはできるけど、傷つけ続けることはできないもんだよなと思う。傷ついたから誰かをずっと許せないと思っているとき、ほんとうは、自分を傷つけつづけているのは自分だと思います。痛い記憶を保ち続けると決めている自分だと思います。



なーんて、悟りきったことを書いてますが、私自身「もー、お悔やみの場でガタガタいうのやめろよなー」と不快に思ったり、「いいかげんにしろ」と思ったりしている(笑)。まあ、こういうのも人生経験ですよね。



許すというのは、相手から傷つけられた、その行いそのものを肯定することではなくて、たんに、相手の行いのために傷つくのをやめる、と、自分で決めることだと、ものの本で読みました。
まあね。簡単にできることじゃないですけどねー。