インターネットとマナー

今日は、ちょっとデリケートな話題です。
不愉快に思われる方もいらっしゃるかもしれません。
あらかじめお詫び……というのもおかしいのですが、お断りしておきます。




最近、A/P/Hとか、ジャイ/キリとか、スラダンでない、若いジャンルにお邪魔することも多いんですけど、なにしろスラダンって練れまくっているというか、レイティングいらないんじゃない? というくらい、年齢的にも精神的にも大人な方が多いジャンルなんで、そういうところから遊びにいってみると、なんだか、マナーについて騒動になっていたりして……とくにA/P/Hとか。すこし、怖いな、と、思ったりします。
マナーが悪い人が怖い、というのではなく、マナーが悪い、と、注意している方たちの、雰囲気が怖いのです。
A/P/Hというのは、たしかにデリケートなジャンルだと思います。レイシックジョークがもとになっているということ事態が、微妙です。
ご本家さまは、この難しい取り扱いテーマで、上手にバランスをとっていらっしゃると思います。現在は商業展開されていることもあり、非常に配慮されて、運営されていると思います。お若いのにすごいです。
ご本家さまが、なにより素晴らしいと思うのは、悪意がない、というところです。というより、積極的に、愛がある。
マンガを読むと、登場するキャラクター、ひとりひとりを愛おしんで描かれたことが、よくわかります。たとえば、少しバカにするようなエピソードが描かれたとしても、根底にあるのが愛情なので、なんだか心が温まるのです。
これほどに、ご本家さまの設定された、A/P/Hという世界が、爆発的な人気を博したのは、この、愛情のただよう雰囲気ゆえじゃないでしょうか。
もちろん、これは私の感じ方であって、違うふうに感じる方がいるというのは、理解しています。
そしてまた、私がとても大好きな、腐/女子、801、というジャンルに、不愉快を感じる方がいるということも、理解しています。
ときどき考えます。なぜ、私たちは、腐った妄想が好きなんでしょうか。
あらかじめ、自分という、女性が排斥された場所が好きなんでしょうか。
なぜ、と、書きながら、私は私自身の回答は、すでに知っています。その世界には、私が存在しないからです。
自分という存在が、あらかじめ排斥されているからです。
自分の入り込めない場所だから、安心して遊べるのです。砂を吐くほどの甘い物語も、身を切るように切ない物語も、自分とは関わりないものです。安心して手に取れる、火傷しない、怪我をしない、安全なものです。とても遠い場所の物語なのです。
すべては錯覚ですけど。
……そう。錯覚なんですけど、ね。
たとえなにも書かなくても、なにを望むか、なにを読むか、なにを見るか、あるいは、なにを拒否するか、ということ、欲望は、その人がなにものか、いやおうなくあらわしてしまうものだと思います。表現してしまうものだと思います。
つまり、生きていることそのものが、魂のストリップである。
恐ろしいですね。
恐ろしいけど、こいつが快楽だったりもするんだなあ。
話が逸れましたね。
A/P/Hというジャンルを愛する人がいます。嫌う人がいます。A/P/Hというジャンルを愛する人を嫌う人がいます。801や腐向け妄想を愛する人がいます。嫌う人がいます。801や腐向け妄想を愛する人を嫌う人がいます。これはすべて表現です。
なにを受け入れてなにを拒絶するか?
もちろん、ファンダムの中で、じっさいに迷惑な人に遭遇して、そのジャンルそのものが嫌いになる方もいるでしょう。とても傷ついてしまう人もいるでしょう。それは悲しいことだと思います。けれどこうも思うのです。誰も傷つけず不愉快にしない表現は存在しない。
なにかを好きだ、ということじたいで、誰かを不愉快にすることがあります。私は納豆が好きですが、納豆を好きだ、という人々が存在することじたい、信じられない、という人がすることも知っています。まあ、納豆、というのはとてもこう、わかりにくい例ですけども。タレントさんとか、誰かを好き、と言っただけで、ほかの誰かを不愉快にすることは、ままあります。そのタレントさんが嫌いな人ってのが、世の中に存在するからです。
世界はとても広く、価値観は多様です。
マナーは、思いやりは、たしかに、大切だと思います。地下にもぐるべき表現、秘すべき表現も、あると思います。自分が望むことで、表現することで、誰かが傷ついたり不愉快になることが当然だと、私は言いたいのではありません。しかし、それは、どんなに悪意なく注意深く生きていたとしても、ときにありうることです。
価値観が多用で、回答が幾通りもありうるこの世界で、それこそ、定理といっていい、絶対の前提と言ってもいいかもしれません。
生きているだけで人を傷つけることがある。
A/P/Hのマナー問題が、こんなに大騒動になったことと、インターネットの発達は、無関係ではないと思います。誰もが気軽に発信でき、誰もが気軽に見られるようになったから、騒ぎが大きくなったのでは。むかしは、好事家が、特定の場所にいって楽しむものでしたからね…同人誌なんて。
古オタクのおばちゃんはなつかしく思い出すのですが、C翼のときも、いまみたいな騒動がありましたよ。C翼のファンははマナーが悪い、うるさい、バカだ、といわれ、同じ館にされたくないと言われ、散々でした。ジャ○プの編集後記で「変な本を出されて、先生もキャラクターも悲しんでいます」とまで書かれましたからね。原作サイドは腐系ファンを全否定でした。
けれど、騒動になるほど爆発的な人気を誇ったC翼が広げたオタク人口の母数が、いまや、世界を侵食するパワーを擁することになった、アキバカルチャーを作った部分もあると思います。
A/P/Hも、これほど騒ぎになるということは、いずれなにかを残すのかもしれません。津波のさなかの、いまは見えませんが…。
インターネットの発達が、騒ぎを大きくしたと書きましたが、私は、インターネットの基盤になっている技術が、わりと好きです。
なぜ、私たちは遠くのパソコンと繋がれると思いますか?
ルーターがあるからです。
ルーターって、ようするに、通信と通信を繋ぐ機材なんですけど。神経細胞シナプスみたいなものですよね。いくつものラインと、ルーターが、網の目のように繋がって、私たちのインターネットは出来上がっています。
たとえば、むかしのSFだと、情報ネットワークというものは、巨大なホストコンピューターが制御する……というようなイメージだったと思いますが、現実に人間が作り上げたネットワークは、小さなルーターたちが寄り集まって作られたものでした。
ルーターには、自分を通り抜ける情報をフィルタリングする機能があります。つまり、検閲できる。けれど、現在、インターネットというひとつの世界のマナーとして、国家なり政府なりのイデオロギーが、ルーターにたいして、フィルタリングの強制、つまり検閲は、しないことになっています。
もちろん、フィルタリングがなされたルーターは存在します。けれど、インターネットがネットワークである以上、つねに情報のルートはひとつではなく、誰かが発信した情報を、どれかひとつのルーターがとどめようとしても、異なるルーターとラインを通って、どこかにはきっと届く。
それがインターネットです。
誰かが傷つくかもしれない表現。悲しむかもしれない表現。トラウマになるかもしれない表現。すべてを、インターネットは公開してしまいます。それがインターネットです。同時に、どうしても届けたい表現があるならば、誰にもそれを阻むことができない。それもインターネットです。
これほど自由な表現の海を与えられた現代は、しあわせな時代だなと思います。誰かを傷つけるかもしれないとの自覚のうえで、マナーも優しさも思いやりも、ルール作りも、やっぱり必要だと思います。けれども、マナーも思いやりも優しさも、ルールも、誰にも強制することができない。それが、インターネットの素晴らしさでもあると思うのです。とても難しい表現になってしまいますが。
インターネットには悪意もたっぷり溢れていますが、本質的に、性善説を前提にしたシステムなんですよね…。
性悪説で運営したほうが、どんなシステムでも、平和なものなんですけどね、じつは。
それでも性善説の、インターネットが好きです。
かつて私は、ネチケットという言葉が嫌いでした。造語として響きがダサいというのが第一だったんですけど(笑)、ネチケットにものすごくこだわる人のこだわりぶりが、逆にマナーを欠いていると感じたからでもあります。
糾弾や断罪は、不幸の連鎖しか生まない、と、まあ、これは私の価値観ですが、思います。私の価値観では、正義とは、独善と視野狭窄の異称です。